2021年8月11日水曜日

八月のドラゴンフライ



振り向くと、


肩先をかすめて飛んでいった
風のまにまに光って小さきもの
僕をもう追い越して それは八月のまばゆい光のなかへ


ドラゴンフライ
そのうすい羽の向こうに少女が見える

 
夏の陽射しははるか緑をしたたらせて
いつかの廃線駅の日盛りで少女が微笑む
洗いざらしの黒髪が揺れている 僕の好きだった少女


曇りガラスに指で書いた「アイシテル」という言葉
笑って逃げて行った空色のワンピースが
羽のようにひるがえって 今また僕を通り過ぎてゆく


(少女はピルエットをまわる 世界ごと、ふくらんで)


僕のまなざしの向こう ひとつの楽園があるように
やさしく繰り返す 君のなまえ 僕のなまえ
もう来ない列車をずっと待っていた、あれは遠い夏


ドラゴンフライ
手も触れずに行ってしまうの なつかしい風のように


のばす指先にほら ただ光っては消えてゆく








2020年12月12日土曜日

冬のシネマ



ガラス越し
ひとつの思い出が横切る午後
指をのばしてももう届かない影よ
その横顔はいつか見たシネマ
唇が動いて――と言った

    
    蒼いカモメの夢を見た
    夜明けの波濤を翼で風切る姿を


    微笑みだけが慰めのはずだった
    今はあなたのまなざしだけが


風のドアをひらいて
かかとを鳴らし歩いてゆく
革の手袋をはめる淋しげな背中よ
その後姿はいつか見たシネマ
指が動いて――と言った


            記憶の海ははるか
    蒼いカモメを胸のうちで飛ばした


    あの歌をいつも口ずさんでいた
    雑踏のなか 光射すほうへ



2020年5月15日金曜日

アナザーバード



緑の扉口(とぐち)で世界がはじまる
アナザーバード
ありふれた季節に
誰でもない名前を探していた
初めて逢うひとのような
遠い
横顔を


朝露に濡れた
葉裏がひるがえる
風の道
ためらいながらも
腕のなかに抱かれて
そっとその頬に指をすべらせた


さびしく燃えてゆく鳥の声
心臓をついばむように
花ひらく
明日
生まれ変わって円環する
時も粒子も越えながら


しずかな色彩で呼んでいる
それとも
アナザーバード
何気ないしぐさで
誰でもない名前を口にふくんでいた
風の行く先を見つめる
いつかのまなざしを
どうか



2019年12月7日土曜日

眠レナイ夜ニ



月だ
月の光がさしている
やがて窓からこぼれるように


羊はいくつ柵を越えただろう
少年は薄目をあけて天井を見る
白いかたまりは柵からあふれて
容赦のない瞳でじっと見つめ返す
人形は口を利かない
抱きしめても青い目は遠くを見るばかりだ
トランプ遊びにももう飽きた


むかし荊の城に閉じ込められた姫は
今も百年の眠りをむさぼっているだろうか
それとも林檎を齧った赤いくちびる
姫のまぶたには青い月の光がさしている


  S`il vous plait.


月の光が
やがて手に届く
指先にからみつくように


眠れない夜には待ち続けよう
あのひとのやさしいくちづけと
真夜中に転がる一個の林檎



2019年9月14日土曜日

みずうみ



草原の彼方にあなたを見た
昨日の夢のように意味もなさずに
草の葉だけが知っているこの遠い既視


足もとがおぼつかなくなる
一羽の鳥が飛び立って空は青く


(わたしは行方知れずの夢です)
(それとも一羽の迷い鳥)


わたしに手招きする燃えるみずうみ
まぼろしだったのか あなたが顔を沈めて髪を広げた
日々はいつか燃える
後ろ姿も探さずに影法師だけがのびて
今もふいに新しくわたしはわたしのあなたを知る


あなたのための湖面はすでに凪いで
わたしのための簡素なボートだけが
岸辺に寄せてゆくみずうみ
いつか足指を濡らして渡ってゆく
漕ぎ出してゆく
旅するようにあなたのもとへ


(そうしてこの夢から放たれるために)


ここではない草原の彼方にあなたを見る
明日の予感のように唐突にきっと
一羽の鳥が戻ってくる この掌のなか




2019年5月18日土曜日

Equus



ある日突然 少女たちは愛に目覚める
砂漠の朝 あるいは雪山の夜に
一頭の馬のように私のもとへ
走って来る そして駆け抜ける愛の痛み


運命だと知るには遅すぎるだろうか
少女たちは祭壇に祈る あるいは燈火に跪き 
花々が咲いて枯れてしまう前にどうか
一頭の馬のように私のもとへ
走って来て 愛を抱いたまままっすぐに


砂嵐の通り過ぎたあとで抱きしめられたように
雪降る森林のはざまに倒れ込むように
あのひとは私を見つめている 遠く谷山の彼方
オアシスに 凍りついた湖に


夢のくちづけは熱く滴る蜜
夜明けはこぼれていつか翼をもがれた鳥になり
雲になり風になり散って血のように赤くなる


それは秘められた契りのようなもの
少女たちは薄絹に目を閉じ 毛皮に沈黙を守る
愛だけを目印にして駆けてゆく
一頭の馬のように私のもとへどうか
待っている 待っている とこしえにあなたを



2019年2月11日月曜日

わたしたちのもうひとつの翼



ミハイルには翼が四つある
バーン=ジョーンズの絵画のように美しい優雅な翼だ
けれど目には見えない その背中には何もない
ミチルは三つ ミーチャは二つある


わたしの翼はひとつだけ
片翼だけど 大きくてしなやかに抱いてくれる翼だ
空を飛ぶことはかなわない 鳥ではないのだから
ただどこかへ連れて行ってくれる翼を


 風に吹かれたい時は風に
 花になりたい時は花に


わたしたちは秘密の踊り場でステップを踏む
わたしたちは遊び足りない気もしている
手をつなぎ合って 輪になって
あるいは数えきれないほどの言葉を


わたしたちは別の時間を生きている
わたしたちの王国は手をのばせばすぐそこにある
そこでは誰もがほんとうに飛ぶことができる
それぞれのかたちの 思い思いの翼で


ミハイルは空を飛ぶことを夢見ている
遠く遠く 高く高く
わたしはいつか落ちてくる彼を受け止めることを
夢に見ている